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天国で会えるか?

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    レヒナ師
      ヨハン・レヒナ師

    天国で会えるか?


     誰に?  あのユダだよ!

     自分の先生イエスを裏切ったのは、12使徒の一人であるユダ・イスカリオテでした。聖書が語っているユダのことを聞いたことのない方はあまりいないようです。知らない方のために簡単に紹介します。

     ユダはイエスの命を狙う人たちにある日、イエスの居場所を教えてあげました。報いとして銀貨30枚をもらったようです。この出来事は「ユダの裏切り」と呼ばれてきました。つまりそれまでに一つの釜の飯を一緒に食べた弟子が、自分の先生を捨てました。「生まれないほうがよかった」と、彼の後姿を見ながらイエスが言いました。ユダも自分が悪かったと分かっていながら、もらったお金を神殿に投げた後、一本の木の枝に首をつりました。彼のことを言う先のイエスの言葉も厳しいが、ユダは赦しを願う余裕もありませんでした。

     聖書が語っているユダの話はここで終わりますが、2000年にわたってユダは人類の代表的な悪者の一人として歴史に残りました。彼の行くところは地獄しかないと勝手に裁く人も少なくありません。

     ここで私は思いま。カトリック教会では模範的な信者を、死後に列聖する習慣があります。つまりこの人は間違いなく天国に行く恵みをもらっていると宣言することです。しかし逆にどんなに悪かったと言われているとしても、地獄宣言と言うことはありません。

     私もいつか天国に入れてもらいたいと祈っています。そしてそのときあのユダにも出会えたらと・・・贅沢なお願いでしょうか・・・。

    最近、心に思うこと

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      大松師


      大松正弘 神父


      最近、心に思うこと


      1、皆さんの思う「嫌な人」ってどんな人ですか?
       でも、その嫌な部分はその人だけが持っているものでしょうか?もしかしたら、それは私の中にもあるものではないでしょうか?誰でもお互いそんな心でふるまう時があるものですよね!私たちの心の中には人に親切にできる時もあれば、意地悪な心の時もあります。自分を高く上げて傲慢になって、その人との関係をより悪くさせてしまうような時、すぐに「ごめんなさい」と言えたら美しいですね!

      2、どうして心を見つめることが必要なのでしょうか?
       心は様々な状況に触れて、刻一刻と変化します。思い通りになった、そうならなかった、面白い、面白くない、楽しい、楽しくない、気持がいい、気持ち悪い、美しい、汚い、結果として心に様々な感情が浮かびます。プラス感情とマイナス感情。特にマイナス感情を貯め込み過ぎるとよくないですね!取り除いたり、忘れようとしてもできません。一番安心できた時期を思い出すようにしてはどうでしょうか?安心できた心に満たされていることが大切だと思います。私にとって最も安心出来た時は幼小期。

      3、悲しみや苦しみにはどんな意味があると思いますか?
       不平や不満も時として人の心を正常に保ってくれるのでしょう。でも、その試練がなければ、いただいていた恵みがわからなかったのではないでしょうか?健康や命、両親や友人、地球環境の素晴らしさなどに感謝できないのではないでしょうか?また、他者が受けた心の痛みや傷を共感することもできなかったと思います。すべてのことに感謝できるため、人の痛みに共感できるようになるためではないかと思います。

      4、ちょっとしたことで、自分を否定されたと感じ、“キレる人”が最近増えてきているように思いませんか?
       その人の心に起こるマイナス感情は当人や周囲の人を天国にも地獄にもしてしまいます。同級生を刃物で刺す事件や顔見知りでもない人を突然刺す事件が増えています。他人が自分より目立つ、能力が高い、もうどうでもいいなど、自分の心が前向きでないと自分も他者も破滅へと追い込みます。天国と地獄は死んでから行くところだけでなく、生きながらこの世界にも存在するように思います。自分のことだけを考えれば地獄になり、相手の幸せを願うならその場所は天国となるのです。

      5、心が健康であるとはどんな状態でしょうか?
       愛されていることを知って、その喜びを体験している人は誰に対しても心が開かれています。この状態を忘れると人は満たされなくなり、不安定になります。早いうちに本来的自己(安定して、自己を肯定して受け止められる状態)に立ち戻れればいいと思います。私はよく、庭の草取りに没頭します。始める前に持っていた不満は終わった時、適度な疲労と綺麗になった満足感に包まれて、全く異なる心をいただいてます。

      <黒砂糖、大活躍> 不思議なこと

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        キッペス師


        <黒砂糖、大活躍>
        不思議なこと


         今年2月、鹿児島で心・霊・魂=スピリチュアルケアの研修会がありました。そのとき奄美大島から初めて参加した方がいました。数日後、その方から「奄美の黒砂糖」が贈られてきました。わたしは太らないために出来るだけ砂糖を避けています。さらに、黒砂糖はあまり好みではありませんので、頂いたお砂糖は数人の知人の手に渡りました。一ヶ月後、知人の一人から次のエピソードを聞かせてもらいました。

         先日の夕方のこと。職場の受付に「前の道路で人がうずくまっている!」と言って女性が駆け込んできました。見に行くと70歳くらいの女性が道路に座り込み、けがもしている様子。
         声をかけましたが、意識がもうろうとして言葉が出ません。そのうち座っていることもできなくなり、横になってしまいました。ちょうどその時、その方をご存知の方が通りかかり、倒れた女性が糖尿病であることが分かりました。

         すぐに救急車を呼びましたが、どんどん身体が硬直し、意識がなくなっていきました。すると、今度はそこを偶然往診かばんを下げた若い医師が通りかかりました。女性の様子から低血糖だと思われたので、救急車到着までの間、少しでも糖の補給を試みようということになりましたが、硬直した体ではなかなか飲み物は受け入れず、かと言ってその状態であめを口に入れれば詰まらせる可能性もあります。さらに今は甘味料として砂糖ではなく人工甘味料が使ってあることが多いので、こういうものは役に立ちません。状態は悪くなる一方。その時、ああっ!とひらめきました。


         私のカバンの中に先生から頂いた奄美大島の黒糖が入っているのを思い出したのです。1か月以上も前に頂いたものを、なぜか2日前から何となくカバンに入れていたのです。しかも、その黒糖は普通の黒糖と違ってとても柔らかく、口に入れるとチョコレートのようにすぐ溶けます!顔面蒼白で意識もうろうの女性が奄美大島の黒糖を口にして数分後(5分位でしょうか)大きな変化が起きました。体の緊張が取れて、支えられて体を起こせるようになりました。ここで救急車が到着したのですが、15分位して女性が自力で歩けるほどに回復したので、救急車には乗らずに近所の方に支えられて自宅に戻られました。

         「黒糖、効きましたね!!」と医師に言われ、職場の上司と私はにっこり。さらにそれから30分後・・・ご本人が「大変お世話になりました。皆様に助けられました。ありがとうございます。」と歩いてお礼に来られました。倒れたのが人目につく場所、そこを知人、医師が通りかかったこと、黒糖がかばんに入っていたこと、偶然がいくつも重なったluckyな出来事でした。その中でも大島の黒糖は思いがけず大活躍!善の連鎖に感謝します。

        辿れば復活の主へ

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          盛 克志師


          辿れば復活の主へ


           希望に満ち溢れる春がやって来ました。桜の満開に生命の息吹を感じていますが、皆さまは如何でしょうか?

           今年の復活の日は4月8日です。毎年、復活の日は移動する(復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる)ため異なり、世間で言う年度末から新年度の時期に到来します。

           主イエス・キリストは預言の通り、甦りになりいつも私たちと共にいてくださいます。

           主キリストはご受難をお受けになる前に、愛する弟子たちに質問なさいました。「私は誰であるか?」。弟子たちは次のように答えました。「洗礼者ヨハネだとか、預言者だとか言う人がいます」と、他人が噂している言葉で返事をしました。しかし、イエズス様は再び質問なさいます。「あなたは私を誰だと思うのか?」と。この質問こそ、私たちが生涯を通して自らに問いかけなければならない課題ではないでしょうか。

           現代の霊性の指導者としてエキュメニカルな分野でも多大な評価を得た、ヘンリ・ナーウエンという司祭は五十代に入って自分の内面が深い枯渇状態にあることに気づいて、次のような核心的な問いに触れることになったそうです。『年を重ねて、私はよりイエズスに近づいただろうか』と。問いには答えを出すプロセスが伴います。復活祭を迎えるこの季節、このプロセスを大切に過ごしていけたらと思っています。

          一人でいること

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            ハンマ師

            ヨルダン・ハンマ神父


            一人でいること


             時々、ある人から電話を頂きます。「病気ですか、あるいは、何か問題がありますか。」と聞きますと、返事はいつも同じです。「一人でいるから、とても寂しい、話し相手になる人がいません。」それに対して、私はいつも言います。「百万人の都市に住んでいると、話し相手を見つけないといったら、本当に寂しい事です。」と。その時、いつも、うちの修道会の一人の会員の事を思い出します。彼に、いつか会った時に、「ローマでの生活は、いかがですか」と、聞いた時、彼の返事は「あなたは、二百人の会員が生活する修道院で、どれほど寂しい思いをするか、あなたは、想像も出来ないでしょう」という、返事が返ってきました。確かに、他人と一緒にいる時でさえも、孤独感は消えない。けんか相手がいれば、実は寂しくない。


             第二次大戦のことを思い出します。毎朝、学校に行く前に、ごミサに参加する習慣がありました。私の家から教会まで、5百メートルくらいの距離でした。戦争中、家は全部、暗幕されていたので、道は非常に暗いでした。心ぼそく、怖かったのを覚えています。寂しさをまぎらすため、私は、よく口笛を吹きました。教会に行く途中、三人のおじさん達にほとんど毎日会いました、口笛を吹きながら、第一におじさんの家の前を通ると、彼は必ず、牛小屋から出てきて、「このうるさい鳥は、朝早くから皆を起こす。」という、批判の挨拶でした。私は、その言葉を聞いた時、勇気づけられて、一人じゃないと、うれしくなりました。二人目のおじさんの家の前を通ると、怖い気がしました。そのおじさんのニックネームは、隣近所では、道のおまわりさんでした。おじさんは、私の口笛を聞くと、必ず玄関から飛び出してきて、私に厳しい説教をしました。でも私は、おこられてもうれしかった。なぜかといいますと、一人じゃないと思ったからでした。教会に一番近い、三人目のおじさんの家の前を通りますと、必ず出てきて、落ち着いた声で、私に朝の挨拶をしてくれました。私の口笛を、いつも喜んでいました。今でも、この三人のおじさん達のことを、有り難く思い出します。なぜかと言いますと、おこられても、しかられても、一人じゃないという、雰囲気を与えてくださったからです。

             旧約聖書 創世記 2−18で、
             人が一人でいるのは、良くないと、神が仰せになりました。


            南の島・ふたたび

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                ヨハン・レヒナ師


              南の島・ふたたび



               昨年の三月末に、鹿児島教区の人事異動に伴い、北薩の大地大口より南の島徳之島に渡りました。協力司祭として、教会、幼稚園、木想の家(私の木工所)で動いています。
              徳之島勤務としてこれで二回目です。転勤挨拶の言葉は「ただいま」と「おかえり」の繰り返しでした。

               31年前ここに来たとき、島の人口は3万5千人でしたが、今は2万5千人ぐらいだそうです。もちろんカトリックの人口はそれにしたがって減っています。これを見てさびしくなるのはとうぜんです。とくにあの時代の写真を見ている時はそうです。

               このごろのミサだけを考えて、参加者30人のときがあれば、参加者3人、5人のときも珍しくありません。若者が少ない、子供の姿はほとんど見当たりません。先日、仲間の一人が、さびしい顔をしながら言いました。「50年前の神父たちが今の教会のこの姿を見ることができたら、なんと言うでしょうか」。私は一言葉で答えました。「たぶん喜ぶだろう」。

               ミサに参加することは大切なことでありながらも、信仰生活のすべてでもありません。また、数の統計で信仰を図るのも無理でしょう。今の徳之島にも信仰が生きています。必要なのは見る目と喜ぶ心です。


              神様にとってすべての人は宝物

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                大松正弘 神父

                 神様にとってすべての人は宝物 : 教会では先週22日(水)から四旬節に入りました。人はいつか灰になってしまう存在であることを思い、灰を頭に受けます。そんな私たちを神様は愛して已むことなく、生かして下さっています。聖書はこの神様の私たちへの愛を伝えてくれます。皆さんも聖書を神様からの愛の手紙として読んでみては如何でしょう?

                 横浜市の教育再生委員会の室長 : をしている元「ヤンキー先生」の義家弘介氏の体験を紹介したいと思います。彼が大学4年生の時、アルバイト帰りにバイクで事故を起こし、内臓複数破裂で瀕死の状態となりました。激痛で気を失い、激痛で目覚めるという繰り返しの中で、死を覚悟していました。「殺してくれ」と言う気持ちだったそうです。
                 「で、何日後かわからないけど、目覚めたら(出身の北星学園余市高校の担任であった)足立俊子先生がいたんですよ。幻覚かと思ったけど、あったかいし、涙もポトポト落ちてくる。で、ギュッと手を握って『あなたは私の宝だから死なないで』って。ずーと朝まで傍らにいたんですよ。血を吐いたら全部拭いてくれて・・・」この体験から「生きたい」と言う気持ちが猛然と湧き上がり、奇跡的に回復し、3ヶ月で退院できた。その後は「足立先生みたいな生き方もあるんじゃないかと思って。退院してすぐ、俺を『宝だ』と言ってくれた人が歩いてきた『教育』と言う道を自分も歩いて行こうと決めたんですよ」(週刊文春2003年10月16日号)

                 この話しには前段があります : 余市高校時代のこと。いつもはおしゃれな足立先生が、夜の校舎で、ジャージを着て、汗を掻きながら床を拭いてガムを取っていたという。義家氏が「お前は掃除が好きだな」と話しかけると、先生はニコッと笑って「この学校と生徒たちは私の宝物だから磨いてあげなきゃいけない」と。義家氏は言う。『本当に宝物だと思っていることが伝わってね・・・』。

                 人は神様の愛を知って、神様を愛せる人に : 徳之島に来て、10か所の教会を少しづつ綺麗にして行きたいと、信徒の方と一緒に建物の修理や掃除、剪定、ペンキ塗りなどしています。このこと以上に人が愛されていることを感じられる関わりを大切にしていきたいと思います。人に神様の愛が伝わるってほんとに目の前にいるその人に対する深い愛が溢れているその気持ちが伝わっていくことだなぁって思います。そんな人に変えられて行きたいですね。時間と命を費やして一番神様が喜んで下さることは何だろうかと思います。

                 どんなに辛いことが起こっても : 東日本大震災が起こって、もうすぐ1年が経とうとしています。多くの悲しみや苦しみが今も続いています。今回ほど人の痛みが多くの人に身近に受け止められたことはなかったように思います。この震災を通して、人は弱い存在であると同時に強い存在でもあるなぁと感じます。良くも悪くも苦しみは人を変えていきます。どのように受け止めていくかは一人一人に任せられています。「もし、その時、わたしがそこにいたなら?何ができただろうか?何をしただろうか。人を本当に心底、愛し抜けただろうか」今も自分が問われ続けています。

                「あなたが大切」

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                  キッペス師


                  「あなたが大切」


                   先日ある方から以下の問いかけがありました。

                   『先生はよく周りの人に対して “あなたは大切です” とおっしゃいますが、先生が他者に対して “大切” という言葉を使うときの根拠は何ですか?
                   誰を中心として誰に向かって言うのでしょうか? なぜ、このようなことを聞くのかというと、私は初対面の人や見ず知らずの人に対して “あなたが大切です” と簡単には言えません。また逆に知らない人から “あなたは大切な人” と言われても嬉しい気持ちにならないし戸惑います。つまり “大切” という言葉が口先だけの言葉、きれいごとに感じるからです。私の場合、大切という言葉を使うときは、少なくともある程度相手と交流をもち(たとえ数分の出会いであっても)相手を真心から大切だと思えなければ “大切” とは言えないので、先生がなぜ初対面の人に対しても “あなたが大切です” と言えるのか不思議です。神を信じる故に神の被造物である人間だから大切というのであれば、それは人間相手ではなく神が相手ということにはなりませんか?


                   “お体を大切に” とは、親しい間柄はもちろん、ご近所、仕事上の付き合いなど顔見知り程度の人に対しても、ごく自然に比較的抵抗感なく言える挨拶ではないでしょうか。しかし “あなたを大切にして” または “あなたが大切です” と “体” を “あなた” に置き換えた場合はどうでしょうか? 問いかけを下さった方がおっしゃるように、見ず知らずの相手に対して大切と言うには言えるだけの根拠、ベースが必要です。この方にとって、相手を知ることが相手に大切と言えるベースになるのでしょう。私が “大切” という言葉を使うとき、そのベースになるものは信仰です。信仰がベースとなり、神が大切なものとしてこの世にお与えになった存在であるから大切だと言えます。けれど、それは相手の内に神を見て相手の内に在る神を大切と感じているのではなく、あくまでもその方そのものに対して “あなたが大切” と感じて言っています。

                   最近、ある方に(信者ではない方)詩編139の中に出てくる “あなた” という表現が嫌だと言われました。

                  「神よ、あなたは わたしを心にかけ、
                  わたしの すべてを知っておられる。
                  …くちびるにことばがのぼるまえに、
                  神よ、あなたは すべてを知っておられる。
                  うしろからも、前からも、あなたの手はわたしを守る。
                  わたしを包む あなたの英知は 神秘に満ち、
                  あまりに深く、およびもつかない。」


                   自分の知らない相手に “あなた” という表現を使うことに抵抗感があると。そして、その方は “神” や “あなた” ではなく “命の源” と言葉を置き換えれば、すんなりと詩編の内容が心に入って来るとも伝えて下さいました。このように日常的に使うありふれた言葉であっても、その言葉に対する概念や言葉を使う上でのベースは人それぞれ違い、受け取る側の印象も様々です。とくに相手の内面的な面に向けて発せられた言葉、もしくは相手から出た言葉であれば、何気ない一言が意味深く、重みのある言葉となります。自分が日常的に使う言葉やその解釈、言葉の奥にある自身のベースを意識してみることは自分自身を知り、明確にするための一つの手がかりとなるのではないでしょうか。

                  ゴールを目指した旅

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                    盛 克志師


                     私たちの人生はよく旅にたとえられることがあります。確かに、旅には目的地があり、その道中には楽しいこと、苦しいこともあり、人生の要素が凝縮されております。そのようなときに、神さまが共にいて下さることが分かった時、どれほど慰められ、力づけられることでしょう。


                     旧約聖書の創世記12章によりますと、アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」との神の御声を聞き、住み慣れた場所をあとにして、行き先も知らずに七十五歳という高齢で旅立ちました。まさに神の言葉だけを頼りに新たに歩み始めたのです。ハラン(ユーフラテス川のはるか上流にある町)という場所からカナンと呼ばれる約束の地までは 1,000キロほどの遠い道のり。しかも妻のサラ、甥のロトそして多くの家畜を連れての旅です。自分の経験や勘を頼りにするだけでは続かなかった旅だったでしょう。

                     信仰の人アブラハムは神の約束の御言葉に信頼し、ひたすら旅を続けました。また彼は、約束の地に住むようになってからもこの姿勢を変えることはありませんでした。どんな試練の時でも、彼は神への信頼を貫きます。もちろん人間的にはいろいろな戸惑いもあったことでしょう。しかしそれ以上にアブラハムの心の中にあった思いは、御言葉によってわたしをこの旅路へと導き入れてくださった方は、どのような状況にあっても最善の道を備えてくださるに違いないという確かな信頼でした。わたしたちもこの神への信頼に生きようではありませんか。

                     「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
                    (ヘブライ人への手紙11:8)

                    行こうではありませんか

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                      ヨハン・レヒナ師


                      行こうではありませんか



                       主の降誕 ☆クリスマス☆ 神が共にいる祝いが終わりました。日本の国は一ヶ月間、クリスマスの色に変わっていました。「おかしい、ここはキリスト教の国でもないのに・・・」という人もいるかもしれません。逆に、何もおかしいことがない、と私は言いたいです。

                       「世間のまねをして、教会もクリスマスのお祝いをするのですか」と言う人もいるそうです。笑い話に聞こえます。もともとクリスマスのお祝いをする所はキリスト教の信者の家庭や教会でしょう。しかし救い主は、ただキリスト教の所有物のようなものでもないです。神と周りの人々に心を開く人がいれば、そこでキリストは新たに生まれるからです。その誕生を祝うのは当然のことでしょう。

                       昨日最も感激したのは、カトリック幼稚園のクリスマス会でした。聖劇の終わりに14名の小さな役者たちは部隊に並んで元気な声で次の歌を歌いました。

                      「あるいていこう」
                       もし イエスに あいたいのなら あるいていこう
                       ちいさな うまやへ
                       ないているこ さあげんきをだして
                       おこっているこ もうけんかはおしまい
                       やさしい こころに なりたいのなら
                       みんなで いこう
                       ちいさな うまやへ

                      あなた行きましたか ・・・ 小さなうまやへ


                      ********************************************
                      休ましてあげよう
                      −福音の中の福音−


                       休ましてくれる人は誰? それは2000年前のイエスです。イエスが残してくたさった言葉を教会の看板に書きたいです。「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあけよう」という言葉です。(マタイ11.25−30参照)。

                       人間は生きるものとして色々と活動しています。教会も例外ではありません。特に福音宣教はなくてはならない活動の一つです。

                       問題は活動そのものよりも、活動に伴う忙しさです。たとえば、「うちの主人は、家庭を忘れて、教会にばかりいます」と嘆いている婦人たちの泣き声を覚えています。

                       教会での過労死の話しをまだ聞いたことがありませんが、しかし人を忙しくして、忙しくして動いているところが少なくないようです。このような教会は忙しい現代人に何を貢献することができるでしょうか。

                       イエスはただ「疲れている人、来なさい。休ましてあけよう」と呼びかけています。「もっと忙しくしてあけよう」と言われた覚えがありません。「ミサに来て、私の前にお休みください」と言われている気がします。それは私だけでしようか。

                       主がそのうちに永遠の安息をくださることを信じています。

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